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市川崑、レニ・リーフェンシュタールそしてオリンピック【No.236】 


2013.09.18(Wed)

 1964年のオリンピックの記録として日本の映画人を結集して作られた『東京オリンピック』は黒い鉄球が古いビルを壊す場面から始まる。今でこそスクラップ&ビルド方式は善いイメージで語られないが、当時それは「破壊は創造を生み出す」という文脈の中で語られていたはずだ。いずれにせよ、その斬新なイメージから始まるオリンピックの“記録映画”は、政府関係者のみならず観客の半数ほどからも不評で、監督の市川崑は編集の仕直しを命じられた。しかし市川崑はそれには応ぜず、結局、『東京オリンピック』とは別に記録映画が編集された。しかし、その記録映画は市川版=記録映画の圧倒的な出来栄えの前に、陽の目を見ず忘れ去られた。当時巻き起こった「芸術か記録か」の論争も今ではお笑い種だろう。結局、東京オリンピックの公式映画として誰もが認めるのは市川崑の作品の方である。
 一方、1936年のベルリンオリンピックをとらえたレニ・リーフェンシュタールの記録映画『オリンピア(民族の祭典・美の祭典)』は、ベネチア映画祭で最高賞を取るほどの出来映えだったにも拘らず、ナチスを称揚した作品として断罪され、レニ自身も長い間不遇の人生を送らざるを得なかった。レニの美意識とナチスのそれがシンクロしたが為の悲劇とみるのが妥当だと思うが、それでも、彼女が時の政権(=ナチス)を美化して多くのドイツ国民の目を曇らせた責任を免れるものではないだろう。
 クリエイターとは何だろうか。僕はこう定義したい。その人自身の美学・美意識に殉じる人である、と。殉じるとは穏やかならざる言葉だが、そうとしか言いようが無い。おそらく市川崑もレニ・リーフェンシュタールも映画製作当時、それがもたらす社会的影響や政治との関係を意識していたとは思えない。ただ、良い作品を作りたいと思っていたに過ぎないだろう。レニの場合は、ヒトラーの全面的な協力の下に、思うがままに作品を仕上げる事が出来た。市川の場合は、社会が経済的に急成長していく中で、自由な意見表明の機会を与えられていたということである。レニも市川も美に殉じた。だが、今はそれだけでは済まないのだ。オリンピック自体、国威発揚の場でもあるし国際政治の駆け引きの場であることは論を待たない。だがその状況は時代時代で変わっていく。そこにあってはいちクリエーターの想いなどいとも簡単に吹飛ぶ。
 我々はすでにレニの犯した過ちを知っている。市川の奮闘を知っている。そして、クリエイターであるならば今と無縁であることは出来無い。マスメデイアが壊滅状態のわが国においても、今がどのような情況であるのか知ろうと思えば、いくらだって情報は引き出せる。であるなら、時代に敏感であるはずの、今の時代に生きるクリエーター(を自覚する者)は自らの立ち位置を確認する必要があろう。その時、初めて、クリエイターはその責務を全うすることが出来るのだと思う。今という時代を是とするのか、否と考えるのか。立場をはっきりと表明すべき時がやって来ていると考えるべきではないだろうか。

category: 日々是好日 Days

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