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不協和音としての手持ち撮影。 


2010.04.15(Thu)

完全協和音の一度と五度に不協和音である三度の音が加わった事で音楽の世界は飛躍的に広がった、とあるTV番組の中で坂本龍一がレクチャーしていた。映像の世界において、その三度の音にあたるものは何だろうか。フィックス撮影も移動撮影も、予め周到に計算されたものである以上、協和音の域を外れるものではない。ところが、手持ち撮影となると些か事情は異なる。それがいかに計算されたものであったとしても、被写体の、或はオペレートする者のパフォーマンスによって、計算以外(以上)の要素が否応もなく入り込んでくる。目の前で進行していく事態を捉えるにはキャメラ・オペレーターの反射神経に委ねるしかないのである。ここ二日ばかりの間に観た『ハートロッカー』と『第九地区』がいずれも同じような手持ち撮影を全編に採用していて、あたかもドキュメンタリーであるかのような迫真性を物語に与えていた。何度も繰り返されたテイクであっても、そこには確実にライブ的な要素が入り込むからである。手持ち撮影は映画に真実味を付与する強力な武器である。手持ち撮影の発見は、まさしく音楽における三度の発見と同様に、物語に深みを与えるものであった。その破壊的な威力はまさに映像における不協和音である。
ニュース映像に見られるような手持ちの映像は、前述したように、そのほとんどをキャメラマンの反射神経に頼っている。だが一方で、キャメラマンの息遣いさえ露なのに、そこにキャメラマンの記名性はない。タイで取材中、凶弾に倒れた村本博之氏の最後の映像が放送されていたが、彼の撮った映像を観ると、そこに写された緊迫した当時の状況は、村本氏と言うキャメラマン個人が命を賭して切り取ったフレームにも関わらず、匿名性の高いものになっていた。世界の至る所でカメラは稼働している。今この瞬間にもありとあらゆる現場では誰かがカメラを廻していて、その映像は瞬く間に世界中へと配信されていく。誰もが簡単にきれいな映像を撮ることが出来る時代、映像は表現行為ではなく消費されていくものである。そして残念な事に、キャメラマンは最早特殊な職業ではなくなり、表現者としての地位をも奪われてしまったのである。
手持ち撮影は映像世界に新たな自由を与えたが、不協和音だけで綴られたスコアが耳に心地好くはないように、映像もまたそれだけで構成されていてはただ疲れるばかりである。上記の二作とも極限状態におかれた人間の心理を表現するには、なるほど手持ち撮影はそれ以上ない選択であるが、それをしたからと言って映画に深みが増すことにはならない。折角、新鮮な題材を得ながら、どこかちんまりした印象を受けるのはカメラワークの単調さにありはしまいかと思ってしまうのである。キャメラマンが表現者であり続ける為には和音の使い方をもう一度我がものにする必要があるのではないだろうか。

category: 映画のはなし About Movies

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