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贈る言葉 


2015.03.18(Wed)

 初夏になったかのような好天の昨日、私が講師を務める専門学校の卒業式があった。三年制の学校で、四年前から教え始めた私にとっては、入学から卒業までの三年間を通して教えることのできた最初の生徒たちの卒業である。であるから、彼ら9期生の門出は特別感慨深いものがある。
 現在の技術は驚くべき早さで更新されていく。三年前に最新であった技術が今では旧いものにすらなりかねない。ならば私が彼らに伝えるべきは次のようなことではないだろうか。もの創りの、特に映像という分野での楽しさと困難さである。クリエイティブに携わる者としてどのような姿勢でそれと向き合うべきか。その基本的な考え方を伝えることが出来たら良いと考えていた。だが振り返ってみれば、それを充分に伝えきれてはいないのではないか。教えることに未熟な私は却って彼らから学ぶ方が多かったようだ。忸怩たる思いである。その反省も込め、改めて「贈る言葉」として書き留めておくのも善いことではないかと思う。

「世界と向き合うには、自分にとって自明のことが他者にとってはそうではないという認識が必要となります。ものを創ることの成否はそのことにどれだけ自覚的であるかにかかっています。他者に何かを伝えようとしたとして、百の言葉を尽くして伝わるのはせいぜい十程度でしょう。だから尚更「言葉」を尽くすべきなのです。それでも容易に理解されないものがその人の個性になるのではないかと思います。
 当たり前のことですが「言葉」は文章や会話だけとは限りません。映像も音もまた「言葉」であり、あらゆる手段が「意味(無意味も含め)」を体現するように作用します。つまり表現する者にはあらゆるチャンネルが開かれています。開かれているが故に、時として、表現者の意図に反し空回りしたり、目論見以上に芳醇な香りを放ったりします。一方、受け手にはそれを理解する能力と努力が要求されます。しかしながら、その努力を促すのはやはり作り手の責務です。それが出来ていれば、一瞬にして「物語」のすべてを表出させる表現を獲得するが出来ることもあるのです。いずれにせよ、送り手と受け手との関係においてのみ表現は成立しうるのです。
 こと、映画のような時間芸術に限定するならば、目指すべきはその時間内における変化です。作品と向き合う時間の中で始めから終わりまで何の変化もなければそれは至極退屈です。受け手にとってはそれがない作品と向き合うことは極めて無駄な時間ともいえます。Aと認識されていたものがBに、Cに変わったところに人は心動かされるのです。変化は何の前触れもなく起こるものではありません。受け手はどんなに幽かなものでも(意識するしないに関わらず)それを敏感に感知します。ですから作り手は些細なことにこそ注意を向けるべきであり、少しでも手を抜けば、途端に作品は白々しいものになってしまいます。作品におけるリアリティは細部から担保されるのだということを忘れてはならないのです。大きな嘘をつくために手抜かりがあってはならないのです。
 ただし映画を作ろうとして映画の真似をしてはならないと思います。「映画っぽいもの」が如何に映画から遠いか。映画とはもっと自由で自律的なメディアです。それを信じられるならば、その表現はより豊かにそして最も新しいものとなるはずです。優れた表現とは新しい表現に挑もうとする勇気の結果としてあるものなのかもしれません。」

 新しく社会の扉を開くすべての諸君にエールを送る。
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category: カメラマンの覚え書き Notes of Cinematographer

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『アメリカン・スナイパー』 


2015.02.25(Wed)

アメリカン・スナイパー

 奇跡は起こらなかった。少なくとも私の目の前では。
 最初に断っておかなければならないのは、イラク戦争において伝説的な狙撃手となったクリス・カイルの手記を映画化した本作が駄作であるということではない。寧ろ凡百の作品より遥かに優れているということを前提にした上での話である。私にとって、イーストウッドの映画を見ることは、即ち、映画の奇跡を体験することと同義語である。例えば、『チェンジリング』における母と息子の、永遠の別れとなる場面を思い起こすがいい。そこに一瞬立ち現れた、映画としか言いようのないもの。この、瞬時にその物語の全容を得心出来るような奇跡的なショットを観よ。『許されざる者』では年老いたガンマンが昔の仕事を再開すべくかつての相棒を訪ねる。その場面にもまた映画でしか味わえない醍醐味がある。或は『ジャージー・ボーイズ』の大団円でもいい。だから私は「アメリカン・スナイパー』において、それがまたどういった風に現れてくるのか息をひそめて画面を見続けていたのである。イーストウッド当人にとっては極めて迷惑な話だろうが、私のイーストウッド映画に対するハードルは極めて高いと言える。
 イーストウッドは、アメリカの歴史をずっと撮って来た。その中で、彼の視線の先にあるのは、常に、抗いようのない現実に翻弄されながらも自分の生き方に忠実な一個人である。ここで描かれたクリスもその例外ではない。イーストウッドが保守であろうとリベラルであろうとどうでもいいことである。信用すべきは彼の眼差しの確かさである。敵の死は、それが例え女子供に起こったことであろうと遥かに遠く、味方の死はあまりに近い。今まで彼以外に誰がこの避け難い戦争の現実を視覚として切り取った者がいただろうか。また、あらゆる対立と葛藤が物語の推進力であるとしたら、本作はその見事な典型であるだろう。父と子、兄と弟、夫と妻、敵と味方、持つ者と持たざる者、そして何よりも自分の心の中にあるアンビバレンツな感情。
 それでもなお、130余分の間ずっと、一瞬にして立ち上がってくる何か、奇跡としか言いようのないショットを観たいと乞い願っていたのである。だからそれを観ることもなくエンドクレジットが流れた途端、失望が勝ってしまった。そんなショットがあったなら、間違いなくイーストウッドの最高傑作として(彼の場合、いつだって最新作が前作を上回るのだが)記憶したに違いない。もしかしたら大事な場面を見落としていたかも知れない。映画館で作品を観るのは一回だけと頑に決めているので確かめようもないのだが、そんな気にさせるのも彼の名人たる所以である。撮影はいつものトム・スターン。相変わらず手堅い画を撮る。砂嵐の中での脱出劇の描写は素晴らしい。

category: 映画のはなし About Movies

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予感とサイン。 


2015.02.20(Fri)

 家に帰った途端、電話が鳴った。母と暮らす姉からだった。「早く来て。お母さんが。心臓なの。」支離滅裂な言葉でも言わんとすることは伝わる。予感はあった。今年はもしかしたら嫌な年になる。だが、そうだとしても、あまりに早すぎる。まだ二月になったばかりだ。腰が痛いという母を病院に連れて行った姉の報告を聞く限り、他には何の兆候もなかった。だが、急な連絡を受けて姉が病院に着いた時には、母にはもう意識が無かった。心臓肥大による心不全だった。
 母が息を引き取った頃、僕は地下鉄に乗ったばかりだった。もどかしい気持ちをどうすることも出来ないまま、窓に映る自分の姿をぼんやりと眺めていた。窓外を流れる光は、存外に、ゆっくり流れるものだ。六本木駅に差し掛かった頃だと思う。目の前のドアの上にある電光掲示板が、突然、不思議な動きをした。周りを見回したが他のディスプレーに異常はない。故障かと思って訝しく見ていたが、その動きはほんの一瞬のことで、駅を出てからは何事もなかったように正常に動いている。僕はすべてを了解した。母が、僕の到着を待ちきれず、サインを送ったに違いない。車に乗せると完全に止まる前にドアを開けて降りようとするほどせっかちな人だった。忘れないようにと時計を見た。偶然だと片付けることは出来る。でも僕はそれが母のサインであったと信じている。
 深夜になって辿り着いた病院で待っていたのは母の亡骸だった。後九ヶ月もすれば米寿のお祝いが出来たのに。それからは時間だけが淡々と流れている。葬儀場の都合やら友引やらで告別式と火葬を終えたのは無くなってから五日目のことだ。その間、涙はほとんど出なかった。薄情な息子と思われそうだが、妻が死んだ時に比べると、喪失感は少ない。長く離れて暮らしていたこともあるが、母は三十六年前に亡くなった父の元にようやく旅立っていったのだと考えると、悲しみが先に立つことはない。それに、予感していたとしても、母の死は急すぎた。現実に起こったことを未だ実感出来ないままだ。ここ当分の間はやるべきことをこなすだけの現実感のない日々を過ごしていくことになるのだろう。

category: 日々是好日 Days

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ふたりのケンジ。 


2015.02.05(Thu)

後藤さんの名から賢治を思い出した。
彼の人生もその実践にあったのではないか。
日本人の理想とすべきは、やはり、かういふことだ、と思ふ。
我々は今、ふたりのケンジの思いとは正反対のところにいる。

〔雨ニモマケズ〕宮澤賢治

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩

category: 日々是好日 Days

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人質殺害事件に思うこと。 


2015.02.03(Tue)

 1日の未明、湯川遥菜さんに続いてジャーナリスト後藤健二さんが殺害された。湯川さん殺害のニュースに接して、日本人の誰もがせめて後藤さんだけでも無事帰国して欲しいと切に願っていたはずだ。しかしそれが叶わなくなってしまったのだ。私自身まだ気持ちの整理をつけることが出来ない。ISISのやっていることはどのような口実を設けようと許されるべきことではない。二人の死に対して深く哀悼の意を表したい。
 言うまでもないことだが、世界各地で起きていることを我々が瞬時に知ることが出来るのはジャーナリストがいるからである。戦争や紛争、テロリズムが今、世界を覆い尽くそうとしている。命の危険を顧みず、彼らが報道してくれるからこそ、我々は自ら危険に会わずしても、そうした悲惨な状況を知ることが出来る。使命感、義務感、正義感、或は功名心。彼らを突き動かす理由は様々あるだろうが、彼らの仕事がなかったとしたらどうだろうか。何も知らされないことがどういった結果をもたらすか、我々はそれを4年前に痛いほど味わったのではなかったか。情報や知識が多ければ多いほど物事に対して正確な判断が出来る。ジャーナリズムは民主主義の根幹を成すものとしてある。
 ところで、日本は極東の島国、先進国としては極めて特異な地理上にある。その地理的な特殊性ゆえ、今まで世界の(過酷な)情勢からある程度の距離をとっていられたに違いない。だから日本人の多くは、地続きの国境をもつ多くの国々の民が当たり前のこととして持っているであろうある種の緊張感とは無縁であり、危機に対していささか目が曇っていることは否めない。紛争各地域を精力的に取材し、危機管理に関しては相当の経験を詰んだ後藤健二さんでさえ日本人特有のナイーヴさから逃れることは出来なかったのではないだろうか。後藤さんの判断の中に甘いものがあったとして、我々がそれを責めることは出来ないはずである。まして状況というのは刻々と変化する。ある時点では比較的安全だった地域が次には危険極まりない地域になっていることだってあるのだ。彼の人となりを知るにつけ彼が本当に心優しい人であったことが判る。紛争地域で暮らす子供たちに深く気持ちを寄せていたようだ。皮肉なことに、最終的に人は信じるに足る生き物である、という思いが彼を窮地に追い込んでしまったとのではないかという気がする。
 そうした彼の生き方の対極にあるのが安倍晋三を筆頭とする「ネオコン一味」ではないか、と私は考えている。残念ながら安倍は一国の代表としては単純すぎるし、弱者に対する眼差しが決定的に欠けている。しかも歴史に対する謙虚さが足りないから、未だに、エコノミックアニマルと揶揄された時代の感覚で国の舵を取ろうとしている。(・・・彼の出自からすれば詮無きものかも知れないが。)二人もの同胞を人質に取られながら、あのタイミングでの原発などの売り込みとその見返りとして支援を表明したことでテロリストには過ったメッセージを送ることになったのではなかったか。フランスでテロが起きた直後のことである。それを日本(安倍自身と言い換えるべきかも知れない)を中東に売り込むチャンスと捉えたなら、その時点で、二人の邦人を見捨てたことになる。後で慌てて「人道」の文言を付け加えたが「ISILと闘う周辺各国に、総額で2億ドル程度、支援をお約束します」がどのように捉えられるか判らなかったとしたらあまりに浅はかである。
 今後の政府の対応次第では日本人が更なるリスクを背負うことになる。無論、随分前からイスラム過激派にとって日本は標的であった。しかしその優先順位は決して高くはなかったはずだ。欧米各国とは微妙な距離感があったと言うべきだろう。ISISの戦略に乗せられることをすべきではないけれど、彼らをことさら刺激することが正しい道であるとは思わない。欧米各国におもねって軽々に「罪を償わさせる」などと言うべきではなかったと思う。そもそも、世界の警察を自負する米国でさえ手出し出来ない状況で、どのように罪を償わせるというのか。そこに安部の無邪気な覇権主義信奉をかいま見ることが出来る。覇権主義に対抗するために自ら覇権主義の道を取ることは愚かなことだと思う。ISISの論理と何ら変わることがないではないか。アジアの片隅で資源も乏しい国が取るべき最良の道は全方位外交しかないと、昔、教わったことがある。まだ日本が戦争の記憶と向き合っていた頃には、そうした真っ当な考え方が主流だったように思う。地理的な特殊性は即ちその国の独自性である。一部世界の潮流に乗っかることは自らのアイデンティティーを捨て去ることである。
 恐怖による人心のコントロールがテロリズムの定義だとすれば、国家もまたその芽を孕んでいることを我々は自覚しなければならない。「人間がおこなうとは思えない行為」もまた人間がしている事に変わりはない。人間はおかれた状況によって悪魔にも天使にもなり得るのだ。ISISはこの上ないほど極端ではあるが特殊な事例であるとは考えない方が良い。いずれにせよ、恐怖によって人を完全に統治することは出来ない。過激主義の末路は決まっている。やがて内部から崩壊して行くに違いない。だが時間はかかる。長い時間軸の中でみれば世界は少しづつ善い方向に向かっている。短気を起こすべきではない。実時間を基準にすれば功利主義に陥ることは明白である。反知性主義、ポピュリズムが世界的な潮流だと言うが、例えばトマ・ピケティの「21世紀の資本」が世界的なベストセラーになったことなどを考えれば、希望はある。テロリズムを防ぐために我々に出来ることがあるとすれば、それは、個々人が正しい知識を持つこと以外にない。正しい知識こそが感情と理性の調和を担保する。
 後藤さんの仕事を忘れないでいよう。それが彼の鎮魂となる。

(※湯川さんの死についてはまだ上手く整理出来ていない。申し訳ないと思う。人の命の重さに変わりはないはずだが、どうしても後藤さんと比較してしまうのだ。私の中にある偏見が邪魔をしているのだと思う。だが彼の冥福を祈る気持ちに変わりはない。)

category: 日々是好日 Days

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