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4分間。 


2017.11.18(Sat)

 35ミリの映画用フィルムは一秒 24コマで撮影するとして、基本的な長さ400ftの場合、4分半の撮影が可能である。フィルムの長さは1000ftと400ftとの二種があるが、何故に1000の半分の500ではなく半端な400なのか。
 太陽がその下端を水平線に接して、姿をまるまる隠すまでが(或は昇るまで)およそ4分かかる。それを基準に400ftという長さが決められたと聞いたことがある。確かなことは判らないが、それが事実だとしたら、その長さを決定したフィルムメーカーの智慧を賞賛すべきだと思う。で、本題はこれから。
 先日、師匠の押切カメラマンから聞いた話である。寒い時期に水面から水蒸気が立ち昇る現象はよく知られている。一方で、空気中の水分が一瞬のうちに凍って陽光にきらめきながら降り注ぐダイヤモンドダストも、またよく知られた自然現象である。それが撮影中の彼の目前で同時に起こったそうである。彼は10年以上も安曇野に通って、水を撮り続けている。だがその長いキャリアの中でも、その現象を目撃したのは、たった一度しかないそうだ。
 水面から立ち昇る水蒸気はとても美しい。当然、構えていたカメラを回したが、2分ほどで一旦カメラを止めたそうである。よくあることだが、フィルムを回し切ってしまっては、その後更に美しい瞬間があったとしても、その一瞬を撮ることが出来ない。だからフィルムで育ったカメラマンは常にフィルムの残量を考えながら撮影に臨んでいる。(デジタルが普及した今では考えられないことではあるけれど)
 カットをかけた途端、それが起こった。一旦気化した水が個体となって、キラキラと輝きながら、再び水面に降りて来たのだ。「液体から気体、気体から個体、そしてまた液体に戻る。水の一生なんだよ。それを見ることが出来て、本当に感動した。ただ、それをワンカットで撮れなかったことを未だに後悔している。カットせずに回していれば。」と、ついさっき体験した事の様に話してくれた。それが4分間、ワンロール(400ft)を廻し切る時間内に起こったこと。
 限られた時間だからこそ、失敗もあれば、この上なく素晴らしい映像を撮ることも出来る。そうした緊張感を持ちながら、映像カメラマンは仕事をしてきた、、、4分間。
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category: カメラマンの覚え書き Notes of Cinematographer

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初心 


2016.12.21(Wed)

自由でいたいが為に「表現」を職業として選択したのではなかったか。

category: 日々是好日 Days

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贈る言葉 


2015.03.18(Wed)

 初夏になったかのような好天の昨日、私が講師を務める専門学校の卒業式があった。三年制の学校で、四年前から教え始めた私にとっては、入学から卒業までの三年間を通して教えることのできた最初の生徒たちの卒業である。であるから、彼ら9期生の門出は特別感慨深いものがある。
 現在の技術は驚くべき早さで更新されていく。三年前に最新であった技術が今では旧いものにすらなりかねない。ならば私が彼らに伝えるべきは次のようなことではないだろうか。もの創りの、特に映像という分野での楽しさと困難さである。クリエイティブに携わる者としてどのような姿勢でそれと向き合うべきか。その基本的な考え方を伝えることが出来たら良いと考えていた。だが振り返ってみれば、それを充分に伝えきれてはいないのではないか。教えることに未熟な私は却って彼らから学ぶ方が多かったようだ。忸怩たる思いである。その反省も込め、改めて「贈る言葉」として書き留めておくのも善いことではないかと思う。

「世界と向き合うには、自分にとって自明のことが他者にとってはそうではないという認識が必要となります。ものを創ることの成否はそのことにどれだけ自覚的であるかにかかっています。他者に何かを伝えようとしたとして、百の言葉を尽くして伝わるのはせいぜい十程度でしょう。だから尚更「言葉」を尽くすべきなのです。それでも容易に理解されないものがその人の個性になるのではないかと思います。
 当たり前のことですが「言葉」は文章や会話だけとは限りません。映像も音もまた「言葉」であり、あらゆる手段が「意味(無意味も含め)」を体現するように作用します。つまり表現する者にはあらゆるチャンネルが開かれています。開かれているが故に、時として、表現者の意図に反し空回りしたり、目論見以上に芳醇な香りを放ったりします。一方、受け手にはそれを理解する能力と努力が要求されます。しかしながら、その努力を促すのはやはり作り手の責務です。それが出来ていれば、一瞬にして「物語」のすべてを表出させる表現を獲得するが出来ることもあるのです。いずれにせよ、送り手と受け手との関係においてのみ表現は成立しうるのです。
 こと、映画のような時間芸術に限定するならば、目指すべきはその時間内における変化です。作品と向き合う時間の中で始めから終わりまで何の変化もなければそれは至極退屈です。受け手にとってはそれがない作品と向き合うことは極めて無駄な時間ともいえます。Aと認識されていたものがBに、Cに変わったところに人は心動かされるのです。変化は何の前触れもなく起こるものではありません。受け手はどんなに幽かなものでも(意識するしないに関わらず)それを敏感に感知します。ですから作り手は些細なことにこそ注意を向けるべきであり、少しでも手を抜けば、途端に作品は白々しいものになってしまいます。作品におけるリアリティは細部から担保されるのだということを忘れてはならないのです。大きな嘘をつくために手抜かりがあってはならないのです。
 ただし映画を作ろうとして映画の真似をしてはならないと思います。「映画っぽいもの」が如何に映画から遠いか。映画とはもっと自由で自律的なメディアです。それを信じられるならば、その表現はより豊かにそして最も新しいものとなるはずです。優れた表現とは新しい表現に挑もうとする勇気の結果としてあるものなのかもしれません。」

 新しく社会の扉を開くすべての諸君にエールを送る。

category: カメラマンの覚え書き Notes of Cinematographer

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『アメリカン・スナイパー』 


2015.02.25(Wed)

アメリカン・スナイパー

 奇跡は起こらなかった。少なくとも私の目の前では。
 最初に断っておかなければならないのは、イラク戦争において伝説的な狙撃手となったクリス・カイルの手記を映画化した本作が駄作であるということではない。寧ろ凡百の作品より遥かに優れているということを前提にした上での話である。私にとって、イーストウッドの映画を見ることは、即ち、映画の奇跡を体験することと同義語である。例えば、『チェンジリング』における母と息子の、永遠の別れとなる場面を思い起こすがいい。そこに一瞬立ち現れた、映画としか言いようのないもの。この、瞬時にその物語の全容を得心出来るような奇跡的なショットを観よ。『許されざる者』では年老いたガンマンが昔の仕事を再開すべくかつての相棒を訪ねる。その場面にもまた映画でしか味わえない醍醐味がある。或は『ジャージー・ボーイズ』の大団円でもいい。だから私は「アメリカン・スナイパー』において、それがまたどういった風に現れてくるのか息をひそめて画面を見続けていたのである。イーストウッド当人にとっては極めて迷惑な話だろうが、私のイーストウッド映画に対するハードルは極めて高いと言える。
 イーストウッドは、アメリカの歴史をずっと撮って来た。その中で、彼の視線の先にあるのは、常に、抗いようのない現実に翻弄されながらも自分の生き方に忠実な一個人である。ここで描かれたクリスもその例外ではない。イーストウッドが保守であろうとリベラルであろうとどうでもいいことである。信用すべきは彼の眼差しの確かさである。敵の死は、それが例え女子供に起こったことであろうと遥かに遠く、味方の死はあまりに近い。今まで彼以外に誰がこの避け難い戦争の現実を視覚として切り取った者がいただろうか。また、あらゆる対立と葛藤が物語の推進力であるとしたら、本作はその見事な典型であるだろう。父と子、兄と弟、夫と妻、敵と味方、持つ者と持たざる者、そして何よりも自分の心の中にあるアンビバレンツな感情。
 それでもなお、130余分の間ずっと、一瞬にして立ち上がってくる何か、奇跡としか言いようのないショットを観たいと乞い願っていたのである。だからそれを観ることもなくエンドクレジットが流れた途端、失望が勝ってしまった。そんなショットがあったなら、間違いなくイーストウッドの最高傑作として(彼の場合、いつだって最新作が前作を上回るのだが)記憶したに違いない。もしかしたら大事な場面を見落としていたかも知れない。映画館で作品を観るのは一回だけと頑に決めているので確かめようもないのだが、そんな気にさせるのも彼の名人たる所以である。撮影はいつものトム・スターン。相変わらず手堅い画を撮る。砂嵐の中での脱出劇の描写は素晴らしい。

category: 映画のはなし About Movies

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予感とサイン。 


2015.02.20(Fri)

 家に帰った途端、電話が鳴った。母と暮らす姉からだった。「早く来て。お母さんが。心臓なの。」支離滅裂な言葉でも言わんとすることは伝わる。予感はあった。今年はもしかしたら嫌な年になる。だが、そうだとしても、あまりに早すぎる。まだ二月になったばかりだ。腰が痛いという母を病院に連れて行った姉の報告を聞く限り、他には何の兆候もなかった。だが、急な連絡を受けて姉が病院に着いた時には、母にはもう意識が無かった。心臓肥大による心不全だった。
 母が息を引き取った頃、僕は地下鉄に乗ったばかりだった。もどかしい気持ちをどうすることも出来ないまま、窓に映る自分の姿をぼんやりと眺めていた。窓外を流れる光は、存外に、ゆっくり流れるものだ。六本木駅に差し掛かった頃だと思う。目の前のドアの上にある電光掲示板が、突然、不思議な動きをした。周りを見回したが他のディスプレーに異常はない。故障かと思って訝しく見ていたが、その動きはほんの一瞬のことで、駅を出てからは何事もなかったように正常に動いている。僕はすべてを了解した。母が、僕の到着を待ちきれず、サインを送ったに違いない。車に乗せると完全に止まる前にドアを開けて降りようとするほどせっかちな人だった。忘れないようにと時計を見た。偶然だと片付けることは出来る。でも僕はそれが母のサインであったと信じている。
 深夜になって辿り着いた病院で待っていたのは母の亡骸だった。後九ヶ月もすれば米寿のお祝いが出来たのに。それからは時間だけが淡々と流れている。葬儀場の都合やら友引やらで告別式と火葬を終えたのは無くなってから五日目のことだ。その間、涙はほとんど出なかった。薄情な息子と思われそうだが、妻が死んだ時に比べると、喪失感は少ない。長く離れて暮らしていたこともあるが、母は三十六年前に亡くなった父の元にようやく旅立っていったのだと考えると、悲しみが先に立つことはない。それに、予感していたとしても、母の死は急すぎた。現実に起こったことを未だ実感出来ないままだ。ここ当分の間はやるべきことをこなすだけの現実感のない日々を過ごしていくことになるのだろう。

category: 日々是好日 Days

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